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I'm 躁々.

【不調のスケッチ】#3

昔から妙なことを恥ずかしがる子どもだった。 小学校低学年ぐらいの頃までゆるめの英会話教室に通わせてもらっていたのだが、毎回の挨拶で聞かれる”How are you today?”に ”I’m fine” と応えるのが恥ずかしかった。どうしてもI’m fineと言いたくなくて、どこかのタイミングで勇気を振り絞って聞いてみた。

「まあまあです、って何ていうんですか?」

「I’m soso って言えばいいよ」

それ以来、体調が絶好調な日も風邪気味な日も雨の日も雷の日も台風の日も問答無用で「I’m soso」と答え続けるマシンとなった。毎回同じ答えを返す僕に先生は苦笑いしていたけれど、I’m sosoの安心感を手放す気にはならなかった。

時は流れて現在。How are you?と聞かれる日こそ減ったわけだが、それ以前にそもそもI’m fineな日が激減した。睡眠障害(診断済み)の症状は寛解しているのだけれど、気分の変調は相変わらずひどい。均すと月の三分の一ほどは鬱っぽさがうっすら膜を張っている。以前書いた通り、梅雨の時期はほとんど鬱々としてぼーっとして頭痛にイライラしながら過ごしていた。しかし困ったことに鬱とは逆向きに気分が大幅に振れることがあり、これば俗に躁状態と呼ばれる。鬱のときのモヤモヤした思考の霧が嘘のように晴れて、アイデアがどっと溢れてくる。枯れていた泉から一気に元気が噴き出すような「ボーナスタイム」が始まる。たまっていたタスクを鬼の速さで片付け、やってみたかったことを試すべくグッと集中して始める。するとあら不思議、身体の疲れを自覚しないまま夜中もぶっ通しで作業を続けている。たとえば前回躁っぽさが訪れた今年3月頃には、蔵書管理用のアプリを自作していたのだが睡眠・風呂・ 食事以外のほとんどの時間をPCの前で過ごすことを3日間ぶっ続けていた。そのあと反動でまた動けなくなるまでが定番の流れとなっている。

鬱っぽさの合間に躁っぽい時期がたまに訪れるので、(診断されたわけではないが)「躁鬱っぽさ」を自己理解の補助線として認識している。 (臨床では双極性障害と呼ばれるらしいことは知っているが、もっとざっくり傾向として「躁鬱」の語を使う。そもそも僕は双極性障害と診断されたわけではないし、服薬しなくてもなんとかなっているのでこのあたりに落ち着くだろうという考え) 「自分は躁鬱だから!!」とアイデンティティの一部として取り込むことは危ないのだが、どうやら躁鬱の人のとるべき対策や忠告は自分に役立ちそうだぞという程度で便宜上そう見立てている。

さて。私の住んでいる地域は既に梅雨が明け、気圧の変調などによる理不尽な不調が消えた。大変喜ばしい。しかしここ数日、私は「泉」から無尽蔵に湧き上がるエネルギーみたいなものを感じ取った。今ならなんでもできるぞ!!やるぞ!!!!!!……あれ?おかしい。調子が良すぎる。 これにすんでのところで気づいた私は一歩立ち止まって考える。

「今日は絶好調だと思っているけれど、単に躁っぽいだけなのでは??」

全身からエネルギーが過剰に溢れるような日こそ、fineではないのだということを自覚しなくてはならないのではなかったか。かくして今回は珍しく暴走状態に歯止めをかけ、バーンアウトするまで過集中で作業をすることを未然に防止することができたのだった。

調子が良すぎると感じる日はむしろ絶好調ではないことも多い。躁々であることはfineであることを意味しない。単にsosoであるのだ。これが教訓である。