← トップへ戻る

「読まれたい」と「読まれたくない」の狭間で

誰も読まないところでブログを書く

書きたい文章があるはずなのに、いまいちnoteに文章を載せようと思えなかった。何度か書いて掲載してみては、「やっぱり何かが違う」と漠然とした違和感を覚えていたのだけれど、その実態はつかめないままだった。

その違和感の理由を考えてみた結果、誰も読まないであろう場所でひっそりとブログを書いてみることにした。たぶんそれが自分にとって一番心地よいのではないかと思うからである。

僕はリアルタイムで知らないのだけれど、個人でブログを書くのが流行っていた時代がかつてあったらしいということはなんとなく知っていて、そこに憧れもある。きっとその憧れは、実態とはかけ離れたロマンみたいなもので脚色されているのだろうけれど、ブログを書くというのは「読まれたい」よりも「書きたい」という欲求が中心の行為だったんじゃないだろうかと想像する。黎明期のインターネットに文章を放流するってどんな感じだったんだろうな。今ほど利用する人も多くないし、それが炎上するとかも少なかったんだろうか。ある意味それは読まれることを今ほど意識しなくて済む時代だったのではないか。放流することそれ自体に達成感だとか、開放感があったのではないか。ちょっと美化しすぎかもしれないけれども。

noteに感じていた違和感は何だったのか?

noteが肌に合わない理由は明白で、それはnoteというプラットフォームがSNS的であるという点だと思う。読まれてなんぼの文章を書いて、人によってはそれをマネタイズしたり、クリエイターを応援したりして、人と繋がるための仕組みが出来上がっている。当然ながら、「いいね」みたいなものを付けることもできるし、どれくらいのアクセスがあったのかを確認する仕組みもそろっている。それ自体が悪いわけではないけれども、プラットフォーム側が「みんなに読んでもらえる文章を書こうね!という勾配」を付けて書き手に発破をかけているのが僕としては気になった。

そりゃ、インプレッションなんて気にしないよ!ハートをもらえなくても関係ないよ!!と吹っ切って書けば良いだけの話なのだけれど、だとすればわざわざnoteにこだわる必要もないのではないか?という結論に至るのだった。

「読んでくれ」と「読まないでくれ」の狭間で

思うに自分の欲望の形がよく分かっていなかったからこそ起こったミスマッチだったのだろうなと思う。「読まれたい」という欲望と、「読まれたくない・放っておいて欲しい」という矛盾した2つの欲望の天秤がぐらぐらと揺れる。それが僕の欲望の形である。

読まれたい!見られたい!という欲望の発露の場の代表例がSNSで、読まれたくない!の発露が日記だなと思っている。SNSでの投稿が誰かに見られることでリアクションをもらって、繋がりを得ることの快楽は何にも代えがたい。その一方で、「気にしい」の僕は周囲の視線を過剰に怖がり、どんどん自己検閲をかけて何を表現したものかと途方に暮れる。人からの視線に緊張して委縮してしまう。だからインスタグラムには未だに苦手意識がある。対照的なのが誰にも見せない日記である。書き手は自分、読み手も自分ひとりだけ。自己完結の小さな円環のなかで、自分の心のさざ波を落ち着けたり悲しかったことを書き留めたり、浮かれた感情を書き残したりする。実際、僕が日記をつけていて思うのは「誰にも見られることはない」ことの安心感によってはじめて書けることが確かにある、ということだ。「放っておいてくれ」という気持ちの日でも日記なら書ける。そういう効能が日記にはたしかにある。

ここまでの話を踏まえれば、「誰にも読まれないブログ」は相反する2つの欲望がバランスを取れる場になりうる。誰かが読むかもしれない場所、でも殊更インプレッションが可視化されない場所で文章を書く。日記以上note未満の文章を書く場所こそが、今僕が必要としている場なのではないかと思う。