今年も「新潮文庫の100冊」の季節がやってきた。夏の文庫フェアといえば、新潮、角川、集英社の3社のイメージで、その中でも新潮はセレクトが手堅い。今年文庫入りした傑作はもちろんのこと、古典的な名作を必ずラインナップに入れてくる。今年はフェア50周年を迎えるらしく、書きおろし短編をまとめたアンソロジー『プレゼント』が発売された。
なんといっても執筆陣が豪華で、伊坂幸太郎、江國香織、恩田陸、梨木香歩、町田そのこ、宮部みゆき、米澤穂信の7名である。アンソロジー企画って大抵誰か知らない新人作家が混ざっているものなので、自分でも知っているような作家たちがここまで揃っているのを見ると新潮社の気合の程が伝わってくる。よくもまあここまで強い作家たちを揃えたな……。
収録作の感想は何回かに分けて書く予定だけれど、今回は江國香織『二つの宇宙』の話がしたい。
おおまかにあらすじを紹介する。おばあちゃんっ子大学生の19歳の男の子が彼女に「もっと本心を見せて」「あなたの大好きなおばあちゃんに会わせて」と要求するが、人見知り極まるおばあちゃんは彼女が気にはなるが直接対面しなくて済むように策を弄して……。
この作品はもちろんエピソードとして面白かったのだけれど、それ以上に登場する人々が愛しくなるのが魅力である。全員が物語のために動かされた駒ではなくて、息づいているような立体感を感じるのだ。それを可能にしているのはたとえばこういう一文なのではないかと思う。
一年生の夏休みあけだったから去年の九月、僕は大学のカフェテリアにいた。 (『二つの宇宙』p.62)
一読して引っかかる文だった。流暢に読ませるためには、「一年生の夏休みあけ」か「去年の九月」のどちらかだけでよいはずである。しかしその二つを「だったから」でつなぐところにディテールが込められている。うまく言えないが、語り手の男の子が思い出すときの考えの流れを丁寧になぞり書きするような効果を与えているのではないか。回想シーンに移るための無機質になりがちな文に血を通わせる。この文から想像するのは「あれは一年の夏休みの出来事だったよな。てことは去年の九月か。場所はどこだっけ?そうだ大学のカフェテリアだ。」と思い出している男の子の頭の中である。
短編ながらも人物描写には余念がなく、彼ら彼女らの「変さ」がお話のおかしみを作り出している。そもそも語り手の悠斗がのちのガールフレンドとなる茉莉加と出会うシーンからしてちょっと変で愛しい。
「放っておいてあげなよ。目玉焼きの黄身を壊すタイミングは、完全にプライヴェートな問題なんだから。」(同 p.63)
食堂で彼女らの近くにいた悠斗は、茉莉加のこの発言にいたく感激し思わず声をかけたという。冷静に考えるとロマンティックでもなんでもないシーンなのだけれど、悠斗の「変さ」が茉莉加のそれに共鳴した瞬間を映した愛しいシーンなのだった。それに感激したのには、悠斗の父親が半熟過激派だったからで……と続いていき、そのエピソードでまた悠斗が立体感を増していく。
そもそもこの物語の冒頭も悠斗が、自分がおばあちゃん好きすぎるのってもしかして変なのか??と悩むところから始まっているわけで。
「変さ」に悩む悠斗と、「変さ」を気にも留めない茉莉加、そして「変さ」を悟ったようなおばあちゃん(もちろん、おばあちゃんも変なので)の3人が愛しく、愛しさを生むのは立体感をもった「変さ」なのかもしれないと思った。